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鳥取地方裁判所 昭和31年(わ)1号 判決

主文

被告人を懲役壱年に処する。

但し本裁判確定の日より参年間右刑の執行を猶予する。

本件公訴事実中強姦致死殺人の点につき被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は他人所有の立木を父の所有であるかの如く装うてこれを他に売渡し立木の代金名下に金員を騙取しようと企て

第一、昭和二十六年六月二十七日毛利輝夫所有の米子市長砂町九百八十五番地山林五反一歩竝びに三村明弘所有の同市同町九百八十九番地山林四反四畝二十四歩附近において、日本パルプ工業株式会社米子工場建設部係員青柳悌彦に対し、右山林を示して「この山林は自分の父の山林で父も売渡を承認しているので買つてくれ」と虚構の事実を申向け、同人を欺して右山林二筆の上に生立する松立木につき右会社との間に売買契約を締結させた上、同月二十九日前記工場事務室において、同会社職員滝田弥から右立木代金名下に額面金三万五千円の小切手一通の交付を受けてこれを騙取し

第二、同年八月九日中山茂所有の米子市長砂町千六番地山林十八歩、浦木豊所有の同市観音寺字北谷二百六十番地山林一反歩及び山根正重所有の同市観音寺字北谷二百六十二番地山林一反二畝附近において、前記青柳悌彦に対し前同様虚構の事実を申向け、同人を欺して右山林三筆の上に生立する松立木につき前記会社との間に売買契約を締結させた上、同月九日前記工場事務室において、前記滝田弥から右立木代金名下に額面金二万二千円の小切手一通の交付を受けてこれを騙取したものである。

(証拠の標目)

一、差戻前の第一審における詐欺被告事件第一回公判調書中被告人の供述記載部分

一、青柳悌彦の検察官に対する供述調書

(法令の適用)

被告人の判示所為は、何れも刑法第二百四十六条第一項に該当し、同法第四十五条前段の併合罪であるから同法第四十七条本文、第十条により犯情の重いと認められる判示第一の詐欺罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内で被告人を懲役一年に処するが、情状により同法第二十五条第一項を適用して本裁判確定の日より三年間右刑の執行を猶予することとする。

(強姦致死殺人の事実に対する判断)

第一、本件公訴事実中強姦致死殺人の事実の要旨は、「被告人は、かねて米子市戸上三十八番地に住む未亡人山形春子(当時数え年三十五才)を姦淫しようと思つていたが、昭和二十三年五月一日午後七時三十分頃鳥取県境港市(当時境町)から自宅への帰途、米子市観音寺地内米川堤防道路上において、右山形春子に出会うや、強いて同女を姦淫しようと決意し、同女を道路下の入江忠雄所有の麦畑に連れ込んでその場に倒した後、同女が死に至ることを認識しながら、手で同女の頸部を扼してその反抗を抑圧した上同女を姦淫し、その際右頸部扼圧の結果、同女を間もなくその場で窒息により死亡させたものである。」と謂うのである。

第二、よつて審按するに、(以下先に本件を審理した鳥取地方裁判所米子支部を前一審、広島高等裁判所松江支部を前二審と略称し、また、右前一、二審の公判準備又は公判期日における被告人及び証人の各供述は、何れも書証であるけれども、必要ある場合を除くほか、単に供述又は証言と表示することとする。)右公訴事実中、山形春子が、昭和二十三年五月一日午後七時半頃から翌二日午後一時半頃までの間に、米子市観音寺字五反田所在入江忠雄所有の麦畑附近で、何者かにその頸部を扼圧され、窒息により死亡したことは、前一審証人浅中平治、渡部喜一郎、木下寿栄子、入江忠雄、吉井靖浩、木村皎、正木熊雄、寺沢幸一の各証言と医師寺沢幸一作成の鑑定書、同人に対する当裁判所の証人尋問調書竝びに前一審が昭和二十七年三月一日行つた検証の結果を記載した調書を綜合すれば、容易にこれを認めることができる。そこで、山形春子の右殺害が被告人によつて行われたものであるかどうかを以下に考察する。

一、前顕浅中、渡部、木下、入江、吉井の各証言及び検証調書と日ノ丸自動車株式会社取締役社長米原穰名義の(皆生、米子間)バス発着時刻についてと題する回答によれば、山形春子は昭和二十三年五月一日夕方米子市尾高町に住む庭園師浅中平治と共に皆生温泉を発つて帰途につき、間もなく皆生道路上新開橋附近で同人と別れた後、午後七時過頃同市観音寺地内米川堤防道路上を観音寺部落、戸上部落方面に向つて歩行していたこと、ところが、そこから程近い自宅を目前にして同夜遂に帰宅せず、翌二日午後四、五時頃米川堤防道路下にある前記入江忠雄所有の麦畑畔上で、ズロースの前面を裂かれ、変死体となつて発見されたことが認められる。然るところ、同月一日夕方、春子が右の如く帰途につき米川堤防道路上に差蒐つた際、偶被告人によく似た男が小脇に風呂敷包みを抱え春子の前方を独り同一方向に向つて歩行していたことは前一審証人渡部喜一郎の証言によつて明確であり、一方、被告人は同日朝米子市観音寺の自宅を出て境港市へ赴き夕方米子市に帰つたのであるが、その晩自宅へ帰らないで同日午後八時頃から十時頃までの間に同市花園町特殊飲食店双葉楼に赴いたこと、しかも、現金を所持しないで登楼した上後日遊興費を支払う約束で接客婦二名に花をつけ宿泊したこと、そして、登楼の際境港市で入手した生魚「まるご」を風呂敷に包み携帯していたこと、当夜被告人の下駄と洋服ズボンの裾が何れも水に濡れ且つズボンの裾には少し砂混りの物が附着していたこと、ところが、春子が変死していた麦畑と米川堤防との間には当時幅約一間の溝が流れ、右溝には観音寺部落に近い南寄りに渡橋に代る一本の土管があるほか他に掛橋なきため、右溝の狭くなつた部分を選んでこれを渡るとしても、身軽な動作で渡る場合のほか、容易に足下の濡れる状態であつたこと、そして、当夜同地方に降雨がなかつたこと、また、被告人は当夜前記双葉楼で、上衣を着た侭寝床に入り、情交をしないで専ら同衾の接客婦の身体を弄び満足していたこと、そして、当夜の被告人はとかく落着を失い便所へ行く際にも同女の附添を求めたこと、被告人がかつて日野川堤防で通行中の人妻を強姦しようとしたことがあることは、前一審証人井上ちよ、奥田峰子、山根吉三郎、中原せきの各証言と米子測候所長名義の気象に関する回答のほか、差戻前の諸般の証拠に照し各認めうるところである。してみると、被告人自身は、終始本件犯行を否認し、昭和二十三年五月一日夕方境港市から列車で米子市に帰るや、間もなくその足で前記双葉楼に赴いたと弁解しているけれども、叙上の事実によれば、却つて、同日夕方米子市に帰つた後、一旦米川堤防道路を経て足を同市観音寺の自宅に向け、途中春子に会つて本件犯行を犯したあと、直ちに前記双葉楼へ引返した疑いのあることが一応窺われる。

二、そこで、以上の経過に鑑み、更に、前顕渡部の証言によつて春子の前方を歩行していたと認められる「被告人によく似た男」が果して被告人でなかつたかどうかを検討する。先ず、前顕渡部の証言と前一審証人武良茂、木村照葉、浦上照の各証言、前一審が昭和二十七年二月二十五日行つた検証の結果、米子鉄道管理局長名義の列車発着時刻に関する回答及び前一審裁判官の証人渡部喜一郎に対する尋問調書その他差戻前の証拠を以ては、被告人が昭和二十三年五月一日夕刻米川堤防道路上春子の前方を米子市観音寺部落方面に向つて歩行していた事実を確認するに足りない。よつて、次に、差戻後の証拠の大半を占める反証の資料について順次その価値を検討した上、諸般の証拠に照し右事実を認めうるか否かを考えてみる。

(一)、先ず、当審証人西古寅市、米原豊(但し第二回公判期日)、木下寿栄子の各証言と当審証人中村秋江、井上ちよに対する各証人尋問調書の記載は、右中村に対する証人尋問調書中の被告人が春子の生前同女に対し想いを寄せていた事実に関する供述記載を除くほか、何れも検察官の請求により、渡部喜一郎が前一、二審竝びに当審の公判準備又は公判期日(但し当審にあつては昭和三十一年五月一日の証拠調期日)において証人として行つた証言中「昭和二十三年五月一日夕刻米川堤防道路上で最初に出会つた男」に関する供述部分の証明力を争うため、これを刑事訴訟法第三百二十八条の証拠として取調を行つたものである。ところで、証人渡部が前一審で行つた証言中検察官において証明力を争う供述部分の要旨は、渡部喜一郎が、昭和二十三年五月一日夕方自転車で米子市勝田町に向う途中、米川堤防道路上で最初に出会つた男は、「頭髪を分け髪にしない年令三十七、八才から四十才位の普通の背丈を有する男で、黒いような洋服の上衣を着用し、下駄か草履の様なものを履き、左小脇に何か風呂敷包を抱えていた」「背恰好といい体格といい被告人大塚によく似ていたと思う」という供述であり、前二審において行つた証言中同じく前記男に関する供述部分の要旨は、「想像であるが、長い髪をした中年輩の男で、黒い洋服を着用し、左脇に風呂敷を抱えていたように思う」「前一審で大塚によく似ていたと述べたのは出会つた男の年輩をたとえたに過ぎない」という供述であり、また、当審において行つた証言中前記男に関する同供述部分は、叙上の証言に比し供述の内容が遥かに曖昧且つ不明瞭であつて、その要旨は、「自転車で何気なくすれ違つたので男の髪や服装などは判らない」「中年の男であろうか洋服を着て小脇に風呂敷を持つていたかと思う」「久しくなつたので今ではよく覚えない」という供述であるところ、これに対し、本項の冒頭に掲記した反証のうち、(1)当審証人西古寅市の証言は「私は昭和二十四年九月から昭和二十六年十一月頃まで米子警察署車尾巡査駐在所に勤務しましたが、同駐在所勤務になつた当時署長から被害者山形春子の殺人事件が未解決になつているから内偵をするよう命ぜられたので内偵をしたことがあります」「昭和二十六年十月二十四、五日頃平素から心易くしていた米子市車尾の吉居為次郎方で同人の妻から為次郎が勤務先の後藤工場で渡部喜一郎さんから山形の死体の発見された前日米川堤防道路で大塚と山形の二人に出会つたと聞いたとのことですと話してくれました」「その翌日私は渡部喜一郎方へ行きましたところ畑に行つているとのことであつたので、その畑へ行き渡部喜一郎に対しあなたはあの山形の死体の発見された前日米川堤防道路で大塚と山形の歩いているのに出会つたということですがどうですかと尋ねたところ、渡部はそのようなことをあなたは誰から聞いたのですかといつて青くなつてガタガタ震えるような恰好になりました。そして渡部はその日大塚と山形に会つたということをはつきり申しました。それで私はそれ以上聞かずその場から直接検察庁に行き中根支部長に会つて右のような聞込をしたことを報告したのであります」との趣旨の供述であり、(2)当審証人米原豊の第二回公判廷における証言は「私は山形春子が変死した事件について証人として昭和二十六年十二月十二日午前八時頃米子の裁判所へ出頭しました」「証人控室には渡部喜一郎、浦富重正、高浦清一、鴨田照子、木下寿栄子さん達が居られ、私が渡部さんにあんたも来て居られますかといつたら渡部は誰が何処から聞いたのか知らぬが自分も証人に呼び出されて困つたなあと言つて居りました。間もなく渡部は証人として出廷し正午頃控室へ帰つて来られましたがその時渡部は青い顔をして居りました」「渡部は控室に戻つてから山形春子が死体となつて発見された前の晩自分は用事があつて米川堤防を米子に出たがそのとき殺された女のほかにもう一人出会つた男はたしか勝君のやあだつた(大塚勝男のようであつたとの意)なあと言われました」「公判の日には法廷に入り切れないほど傍聴人がみえその中には観音寺部落の人も半分以上来て居りました。部落の人は大なり小なり大塚の親戚ではあるし大塚本人の前でその晩米川堤防で会つた男が大塚だつたということも出来ないで渡部は困つた困つたと言つたのだと思います」との趣旨の供述であり、(3)当審証人木下寿栄子の証言は「私はこの事件の証人として昭和二十六年十二月十二日午前十時頃米子の裁判所へ出頭しましたが、法廷に呼ばれるまで米原豊、浦富重正、高浦清一、辻谷照子、渡部喜一郎さん達と一階の証人控室に居りました」「渡部さんが法廷に出たあと皆んなで渡部の調べは長くかかるなあと話して居りましたところ、正午前頃渡部さんが一寸蒼白な、眼の縁を赤くして興奮したような顔をして控室に戻つて来られましたので、高浦さんが何の話がありましたかと尋ねたところ、渡部さんは傍にいるから言いにくいなあといわれましてその時煙草に火をつけるためマツチを持つた渡部さんの手が震えて居りました」「傍にいるから言いにくいと言つたのは大塚が傍にいるから言いにくいということだろうと思いました」との趣旨の供述であり、(4)当審証人中村秋江に対する証人尋問調書中には同人の供述として「昭和二十六年頃大塚が女を殺したという事件で米子の裁判所に証人として出頭しました。私は正午頃に裁判所へ行つて証人控室で待つて居りましたが、そのとき予て知り合いの渡部喜一郎さんから聞いた話によると、山形が殺され発見された前日の晩ではなかつたでしようか、その日渡部さんが車尾の踏切を越えて観音寺部落の方に行つたところの堤防の処で大塚に会つたということでした」「そして渡部さんはこのことを裁判所から訊かれ本当に困つたと言つて居られました」との趣旨の記載があり、(5)当審証人井上ちよに対する証人尋問調書中には同人の供述として「私は裁判所の玄関を入つた廊下の右側の処で、米川堤防で大塚さんに出会つたという年令四十才位の男の人から、自分は大塚に出会つたかどうかということで何回も呼び出されまた大塚の家の者から喧しく言われるので困つているということを聞いたことがあります。それは昭和二十八年五月頃松江の裁判官が大塚さんの事件で米子に来られた時と思いますがよく憶えません」「男の人は夜大塚さんが帰るのと出会つたと言つて居られました」との趣旨の記載があつて、結局以上(1)乃至(5)の各証拠を綜合すれば、(イ)渡部喜一郎が昭和二十六年十月二十五六日頃西古寅市に対し、同年十二月十二日中村秋江に対し、また昭和二十八年五月頃井上ちよに対し、昭和二十三年五月一日夕方米川堤防道路上で被告人に出会つた旨を夫々語つたこと、そして(ロ)渡部が前一、二審での公判準備又は公判期日に証人として裁判所へ出頭した際、右中村、井上のほか、米原豊、木下寿栄子に対し、右日時に右路上で最初に出会つた男が被告人であつたか否かを法廷で証言するについて深く苦悩している旨を夫々告白したことが認められる。そこで、叙上の認定事実のうち、(ロ)の事実に対する判断は事項の性質上後記(三)項に併せてこれを説示することとし、ここでは、右(イ)の事実が渡部の前一、二審竝びに当審における前掲各供述の証明力と如何なる関係に立つものであるかを考察する。凡そ、証人の法廷における供述の証明力を争うため、右証人が法廷外で行つたいわゆる自己矛盾の供述を法廷に顕出するのは、証人が前に同一経験事項について法廷外で法廷の供述と矛盾する事柄を述べている事実を明らかにすることによつて、右証人の法廷における供述が必ずしも信用できないことを立証するにあることは論を俟たないところであるから、前記(イ)の事実を以ては、渡部の前一、二審並びに当審における前掲各供述が何れも十全の信用力を保持しないことを認めうるに過ぎない。尤も証人が法廷で前後(仮に)二回に亘り互に矛盾する供述を行い前後何れの供述を真実とも判定し難い場合には、前の供述と同旨の法廷外の供述を反証として提出し後の供述の証明力を争うことによつて、後の供述の信用性が失われ前の供述が全面的にその証明力を回復するに至る結果、前の供述の内容に副つた事実の認定が可能となることはいうまでもない。これを本件について考えてみると、証人渡部の(信憑力が問題となる)いわゆる供述には、前一、二審並びに当審における前掲各供述のほか、前一審裁判官の同人に対する第一回公判期日前の証人尋問調書があり、同調書中には同人の供述として、昭和二十三年五月一日夕方米川堤防道路上で最初に出会つた男は、「頭を角刈か丸刈にした普通の背丈を有する男で、黒つぽい洋服の上衣を着用し、履物は下駄か草履のようであつた」「風呂敷包を一つ脇に抱えゆつくりした足取りで歩いていた」「受けた感じでは同部落に住む山根正重、高塚金、大塚勝男あたりの年輩体格の者であつたが、ただ高塚金は稍背丈が低いと思う」との趣旨の記載が存在するので、この供述記載と先に掲げた前一、二審並びに当審の各供述を彼此対比して考察するとき、結局渡部の供述はその内容が区々にして且つ曖昧であるため、以上四個の供又は供述記載中、何れがより真実に触れるものであるかを俄に判定し難い。然るところ新たに冒頭の反証により認めうる前記(イ)の事実によつて渡部の当審並びに前二審の前掲各供述は、著しく法廷外の供述と矛盾するため、何れも信憑性が乏しく到底信用するに足らないことが認められ、その結果、同人の前一審の供述乃至前一審裁判官の証人尋問調書中の供述記載が、比較的信を措ける供述として、先に動揺していた証明力を回復するため、結局、同供述に基いて漸く米川堤防道路上の前記歩行者が被告人によく似ていたという事実を認めうることとなる。然しそれ以上の認定はできないのである。ところが、検察官は、前記(イ)の事実を認めうる本項の反証を以て証人渡部の前一審における供述の証明力をも争い、これを増強することによつて、右に説示した認定の限度を超え米川堤防道路上の前記歩行者が現に被告人であつたことを推認できると主張するのであるが、先に引用した如く、同証人の前一審の供述は右歩行者が被告人によく似ていたというに止るのであるから、単に同供述の証明力を動かすことによつて斯様な認定を導くことは到底不可能である。要するに、前記(イ)の事実を以ては、前一審証人渡部の前記証言を出でて、被告人が昭和二十三年五月一日夕方米川堤防道路上を歩行していた事実を認めることはできない。

(二)、次に、米原豊、中村秋江、井上ちよ(二通)の検察官に対する各供述調書も、右中村の供述調書中の被告人が春子の生前同女に対し想いを寄せていた事実に関する供述記載を除くほか、何れも渡部が前一、二審並びに当審(但し昭和三十一年五月一日の証拠調期日)において証人として行つた証言中「昭和二十三年五月一日夕刻米川堤防道路上で最初に出会つた男」に関する供述部分の証明力を争うため、これを刑事訴訟法第三百二十八条の証拠として取調を行つたものであるが、右供述書に録取してある各供述は右米原が渡部から被告人に出会つた旨を聞いたと明言する点を除き、前項に掲記した米原、中村、井上の各供述又は供述記載と何れも略同一であつて、右各供述調書によれば、前項に認定したと同じく、(イ)渡部が昭和二十六年十二月十二日米原豊、中村秋江に対し、又その頃若しくは昭和二十八年五月頃井上ちよに対し、何れも鳥取地方裁判所米子支部において、昭和二十三年五月一日夕方米川堤防道路上で被告人に出会つた旨を夫々語つたこと、そして、(ロ)渡部が、その際同人等に対し、右日時に右路上で最初に出会つた男が被告人であつたか否かを法廷で証言するについて深く苦悩している旨を夫々告白したことが認められる。そこで、右(イ)の事実に関して説くところは前項と同様であるからこれを省略し、(ロ)の事実については次項に説示することとする。(なお、弁護人は、本項の各供述調書は、次項に掲げる渡部喜一郎の検察官に対する供述調書二通と共に、何れも各供述が既に公判準備又は公判期日に証人として供述した後に検察官が同人等の供述を夫々録取した書面であるから、適法な証拠能力を有しないと謂うのであるが、成程、右各書面が供述者に対する前一審公判期日の証人尋問後である昭和三十一年五月頃夫々作成せられた供述調書であることは記録に徴し明瞭であるけれども、論旨は、いわば供述者が既に証人として供述した後に、検察官がその証言事項と同一の事項について供述者から重ねて事情を聴取し、これを録取した場合の調書について初めていえる事柄であつて、先の証言事項とは別異の事項についてなされた供述を録取した書面に該る前掲供述調書の場合には全く妥当しない。)

(三)、ところで、渡部が当審並びに前一、二審の公判準備又は公判期日において、証人として尋問を受ける際、昭和二十三年五月一日夕方米川堤防道路上で最初に出会つた男が被告人であつたか否かを証言するについて深く苦慮していたことは、前(一)、(二)項において認定した各(ロ)の事実と、渡部の検察官に対する供述調書(二通)中同人の供述として「私が昭和二十六年十二月十二日米子の裁判所へ証人として呼び出され法廷で調べを受けた際、傍聴席には沢山の傍聴人が来て居り、その中には大塚の親戚の人も何人か来て居つたと考えられますが誰が来て居つたかは知りません。大塚の家は観音寺部落では古い家で、親戚関係の薄い濃いの差別はあるにしても半分位は親戚関係があるように考えて居ります」「昭和三十年の秋頃松江の刑務所にいた大塚から私に怨みがましい事を書いた葉書が来たことがあります。又昨年(昭和三十年)の暮近くに大塚が観音寺へ帰つて来たということを本年一月頃に聞きましたが、その後本年四月中頃同人が私を怨んでいるという風評が耳に入りました。本年四月二十三、四日頃に車尾駐在所の角田とかいう巡査が私の家に来まして私に世間では大塚が貴方を怨んでいるという風評があるのを知つているか気をつけよ何かあつたら駐在所へ届出るようにと言つて参りました。以上のような事で私としてはいやな気持を持つて居りましたが、私の妻重子は先程の葉書が大塚から来て居りますし大塚が観音寺へ昨年の暮帰つてから同人をこわがつて夜は外出しないようにして居ります」「私は、昭和二十六年秋頃と思いますが、大塚が若い頃人妻を強姦しかけたり終戦後も女に暴行を働いたことがある等という噂を聞きましたので、只今申し上げたような葉書を私に寄越したり刑務所から後私を怨んでいるという風評を耳にしたり等して、同人の性格から私や私の家族に乱暴でもしやしないかと気に懸つた訳であります」との趣旨の供述記載のほか、押収にかかる証第九号郵便葉書一枚と当審証人渡部の公判廷における供述の態度等を綜合すれば、容易にこれを認めることができる。然しながら、本項冒頭の認定事実は単に渡部の当審並びに前一、二審における各供述の価値を判断しうべき資料の一であるに止まり、以上の資料によつては、渡部が右の供述記載により認められる被告人との関係から次第に証言を苦慮するに至つた結果、同人の証言は、後になされたものほど信用性が乏しく、前一、二審並びに当審の各供述を通じて当審のそれがとりわけ信頼できないことを認めうるに過ぎない。従つて、これを前記(一)項の説示と綜合するに、以上(一)乃至(三)項の証拠を以ては、結局、渡部の前一審の証言乃至前一審裁判官の同人に対する証人尋問調書中の記載が比較的措信できることを明認しえたに止まるのであつて、昭和二十三年五月一日夕方米川堤防道路上春子の前方を歩行していた男が被告人であつたことを確認しえない。

(四)、然るところ、当審で新たに取調べた証拠としては、右歩行者が被告人であつたことを認めるについて、以上(一)乃至(三)項に掲記した証拠のほか、他に何ら差戻前の資料を出る証拠が存在しない。尤も、当審証人青木鉄二に対する証人尋問調書、日ノ丸自動車株式会社取締役社長米原穰名義の(境、米子間)バス発着時刻についてと題する回答と当審証人浜田清晴の証言によれば、昭和二三年五月一日当時米子駅午後零時十五分発境行列車は進駐軍の専用若しくは機関車の試運転等に供する列車であつて一般旅客を取扱つていなかつたこと、また、当時境、米子間には日ノ丸自動車株式会社の営業する定期バスが運行し境駅前午後五時二十分発米子駅前行のバスのあつたことが認められるので、被告人の供述中「当日午後零時十五分米子駅発の列車で境へ行き」「午後一時過境駅に着いた」旨の弁解は何ら根拠がないのみならず、帰路「境駅で午後五時五分発の汽車に乗り遅れた記憶がある」「境を午後六時過の列車で発ち」「午後七時九分後藤駅で下車した」との趣旨の供述も信用し難いことを看取できる結果、その日被告人が帰路果して午後七時九分後藤駅着の列車で同駅に下車したかどうかは疑わしく、前記のバス又は午後五時五分発の列車を利用して米子市に帰つたことも考えられる以上、当日午後七時頃被告人の前記堤防道路上に現在することが時間的にみて不可能であるとはいえないことが判るけれども、このことは右路上の前記歩行者が被告人であつたことを積極的に確認する資料とするに足りない。しかも、被告人が当時右路上に現在する時間的な可能性のあること自体は、既に差戻前の証拠によつても、被告人の前記弁解を俄かに措信できないことから、容易に窺われるところであつて、叙上の認定事実により初めて認められる新たな資料ではないのである。してみると、成程、差戻前の証拠によれば、当日の被告人の服装その他と、前顕渡部の前一審の供述によつて認められる「被告人によく似た男」の服装等に、符合する点の存在することは明瞭であるけれども、更に、右の男が被告人であつたことを確認できる資料が存しない以上、結局、被告人が昭和二十三年五月一日午後七時過頃米川堤防道路上春子の前方を米子市観音寺部落方面に向け歩行していた事実はこれを認め難いものという外はない。

三、そうすると、被告人が右日時に右路上を歩行していたことを確認するに至らず、本件犯行を行うについて現実に可能な場所に現在したことを認めることができない以上、被告人の双葉楼における当夜の挙動や衣服の状態などに不審な点が存在したことは先に認定したとおりであり、且つ被告人が春子の生前同女に対し関心を持つていたことは当審証人中村秋江に対する尋問調書、同人の検察官に対する供述調書によつても窺知できるところであるが、これらの事実を以ては未だ本件犯行を被告人の所為によるものと断定し難いので、結局本件公訴事実中強姦致死殺人の点については犯罪の証明が十分でないことに帰するから、刑事訴訟法第三百三十六条に則り被告人に対し無罪の言渡をすることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 谷口武 裁判官 古市清 裁判官藤原吉備彦は当裁判所裁判官の代行を解かれたので署名押印することができない。裁判長裁判官 谷口武)

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